5. お次は、北鎌倉~鎌倉の寺院


前回は北鎌倉~鎌倉の東側を歩いたので、

今回は、西側の禅宗以外の寺社も含め有名寺社をご紹介します。

 

本日は、鎌倉駅から北鎌倉駅へと進んでいきます。

 

 

 

 

本日のテーマは「女性」です。

 

1.寿福寺 (北条政子)

駅から北へ向かって、まずは「寿福寺」から。

登場する女性は、 北条政子。源頼朝のお内儀であります。

参道が誠にきれいであります。


寿福寺は臨済宗建長寺派の寺。この寺は鎌倉五山の第三位の禅寺です。
この地は、昔、源頼朝の父・義朝の居館があった所。

頼朝が落馬が原因で1199年に亡くなると妻・北条政子が夫の菩提を弔うため,栄西を招いて義朝ゆかりの土地に寿福寺を創建しました。

墓地には源実朝北条政子の墓と伝えられる五輪塔があります。本尊は宝冠釈迦如来。

鎌倉の禅宗文化を考える上で、重要な存在の寺院で、

鎌倉初期に高い寺格をもって繁栄しました。

 


北条政子と言えば、頼朝の死後、天皇制の復活をもくろんだ後鳥羽上皇が、北条義時討伐の兵を挙げた「承久の乱」の際の言葉で有名です。頼朝によって鎌倉幕府が始まった世ではありましたが、天皇の権力はまだ依然として強く、天皇家に逆らって戦うことに躊躇していた御家人たちに、政子は毅然として以下のように言います。「みなさん,心を一つにして聞いてください.これは私の最後の言葉です.頼朝様が朝敵(木曽義仲や平氏のこと)をほろぼし関東に武士の政権を創ってから後,あなた方の官位は上がり収入もずいぶん増えました.それもこれもすべては頼朝様のお陰です.そしてその恩は山よりも高く海よりも深いのです.もしこの中に朝廷側につこうと言う者がいるのなら,まずこの私を殺し,鎌倉中を焼きつくしてから京都へ行きなさい

鎌倉の御所に集まった御家人たちはこの言葉を聞いて涙を流し,京都へのぼり朝廷の軍と戦う決意をし、鎌倉幕府を守ったのです。

この北条政子が眠っているのが、鎌倉五山第三位でもある、ここ寿福寺であります。


2.英勝寺 (お勝の方)

次に同じく、女性が眠る「英勝寺」に行きます。英勝寺は寿福寺のほんの近くにあります。

英勝寺は、鎌倉で唯一の尼寺(浄土宗)。

 開基は英勝院尼。お勝の方は、太田道灌の曾孫・康資の娘です。幼名をお梶といい、やがて家康の側室の一人になります。

 英勝院尼は、徳川家康に仕え「戦には必ず勝利をもたらした」ので「お勝の方」と呼ばれた

 家康の死後、徳川三代将軍家光より先祖・太田道灌の土地を譲り受け、1636年(寛永13年)、英勝寺を建立。

 徳川光圀もこの寺を訪問しており、英勝院尼没後は水戸家の姫君が代々住職を勤めたため「水戸御殿」とも呼ばれた。

 

 

勝寺は、鎌倉のお寺の中でもあまり有名ではありませんが、総門・仏殿・唐門・鐘楼・竹林・祀堂など、見るべきものがたくさんあります。古き日本を堪能できます。外国人にもお勧めのスポットです。

 

 

 

3.東慶寺 (夫から逃れたかった女性たち)

本日最後に訪れますのは、「東慶寺」です。ご存じ、女性の「縁切り寺」です。

東慶寺は鎌倉時代の弘安8年(1285)に開創された臨済宗円覚寺派の寺院です。女性から離婚できなかった封建時代に、当寺に駆け込めば離縁ができる女人救済の寺として明治に至るまでの600年間、縁切りの寺法を引き継いできました。

江戸時代初期には豊臣秀頼の息女が千姫の養女として命を助けられ、東慶寺に入寺。のちに二十世天秀尼となり、創建以来の栄華を極めました。

 

明治4年(1871)、廃仏毀釈の影響により縁切りの寺法は廃止となり、明治35年(1902)に尼寺の歴史も幕を閉じました。

かつては男子禁制の寺として、寺への出入りが厳しく取りしまわれていましたが、戦後は花の寺として境内を整備し、現在では多くの参拝客を迎え入れるようになりました。

 

北鎌倉の花の寺としても知られます。

 例年、5月下旬頃から「ヤマアジサイ」が色づきはじめ、6月中旬から下旬に見頃となります。