11.奈良って


 奈良のお寺巡りの前に、奈良のお寺の時代背景を知ることから始めましょう。奈良時代って84年しかないんですね。その間に時代は激変しています。その割には、戦国時代や明治維新ほど有名ではないのは、1000年以上も前だからかもしれません。でも。奈良時代を知るととても面白いと思います。
 このブログでは、奈良時代とその前の時代を俯瞰していきます。
ちょっと、お付き合い下さ
い。


奈良時代の前
 奈良のお寺には奈良時代以外、特に奈良時代より前に建てられた重要なものが多くあります。文化史的には、飛鳥文化白鳳文化 天平文化(奈良時代)と分類されますので、飛鳥文化から見ていきましょう。 6世紀後半、蘇我氏は、宿敵物部氏を倒した後、思い通りにならなかった崇峻天皇を暗殺し、女性天皇推古天皇を立て権力を高めていきました。この推古天皇の政治を実質執り行ったのが、聖徳太子で、この時代は聖徳太子と権力者蘇我馬子が共同して政治を執り行いました。冠位十二階、憲法十七条や遣隋使などを次々と制定・開始していきました。
 聖徳太子の死後、蘇我氏を抑えられる者がいなくなってしまい、蘇我蝦夷(えみし)と蘇我入鹿(いるか)親子の権勢と専横ぶりは、天皇家も凌ぐ程でした。そこで、中大兄皇子と豪族の中臣鎌足(後の藤原鎌足)の二人がクーデーターによる政権奪取を企て、645年に入鹿を誅殺、その後、入鹿の父蝦夷も自害した為、蘇我氏は滅びました。この出来事を「乙巳の変」(大化の改新)といいます。 中大兄皇子はしばらくは皇太子として、実質政務を仕切った後、668年に天皇に即位し、天智天皇となります。この天智天皇の死後の後継者選びの際に、弟と息子とのあいだで起こったのが「壬申の乱」です。結局は弟側が勝利し、天武天皇となります。ここまでが、飛鳥文化時代と言われ、次が白鳳文化の時代です。 中大兄皇子つまり天智天皇の弟が天武天皇でその後、孫の文武天皇、ひ孫の聖武天皇の時代へ。但し、この頃絶大な勢力を持っていたのが、藤原不比等です。しかも、聖武天皇のお母さんは不比等の娘でしたので、不比等は聖武天皇の祖父ということになります。聖武天皇即位の前の時代に平城京遷都が行われ、つまり奈良時代が始まっています。ここまでが、白鳳文化の時代です。

 

 奈良時代

ここから奈良時代です。奈良時代というのは、大変政治的不安定な時代でした。実質的権力者を列挙しただけでも、藤原不比等→長屋王→藤原4兄弟→橘諸兄→藤原仲麻呂→道鏡→藤原百川。

では、順に簡単に見ていきます。権力者不比等の死後、長屋王が実権を握るも「長屋王の変」で自殺に追い込まれ、藤原4兄弟の勢力が増します。自分たちの妹光明子を聖武天皇に嫁がせ、聖武天皇は藤原4兄弟に常に監視されることになります。

その後の4兄弟の死後はアンチ藤原氏の橘諸兄が実権を握るも、またまた藤原廣次が乱を起こし混乱します。そんな時に、聖武天皇は都を次々に移していくわけです。(同時に、新政策もどんどん取り入れていくわけですがここでは省略します)最初は山城の国恭仁京、次に摂津の国の難波宮、近江の国の紫香楽宮と5年の間に目まぐるしく都を移していきました。ただでさえ政局が不安定だった時期に、国家財政を乱してまで遷都を繰り返した確かな理由は不明です。

諸兄派の期待を寄せていた安積親王が744年に急死し、藤原仲麻呂が勢力を伸ばし始める。都は745年に平城に戻り、政情は安定を取り戻し、仲麻呂の全盛期だった。しかし、次第に孝謙天皇と仲麻呂は次第に不和となる。そのころ、僧である道鏡が孝謙太上天皇の病気を治療したことから孝謙の信任を得た。仲麻呂は挙兵するが、失敗して近江に走り、抗戦のすえに滅んだ。これを恵美押勝乱ともいう。

 道鏡はそののち太政大臣禅師から法王に進み、天皇に準ずる待遇を受けた。769年に大宰府主神が、道鏡を皇位につけよという宇佐八幡宮の託宣を朝廷に報告した。いわゆる宇佐八幡神託事件。称徳が宇佐に派遣した和気清麻呂は、天皇になるのは皇族に限るという神託を持ち帰り、道鏡の即位は阻止された。

 

文化史

飛鳥文化 → 白鳳文化 → 天平文化(奈良時代)へ  

 

飛鳥文化!

飛鳥文化の特徴は、仏教の文化を日本でも広めていこうとしたこと。

インドから中国へさらに朝鮮半島へ、そして日本に伝えられた仏教の教え。使者たちは砂漠を歩いたり、木造船で海を渡ったりと命がけの大冒険でした。

使者から使者へと、お経や仏像は手渡されていきました。
仏教との出会いにより、仏教の教えを生かした飛鳥文化へ。
皇族や豪族たちの中でも聖徳太子仏教を広めることにとても熱心でした。

この時に建てられたのが、世界文化遺産にも指定されている奈良の法隆寺です。

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※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/飛鳥文化

法隆寺の中門や金堂は世界で一番古い木造建築です。

法隆寺のほかにも四天王寺、中宮寺などのお寺、飛鳥寺の飛鳥大仏などの仏像が作られました。

 

白鳳文化!

このころに使われていた年号により、白鳳文化と呼ばれています。

飛鳥文化の仏教文化は、少しずつ日本風のものに変わりはじめます。中国や朝鮮半島文化式ではない、日本人らしい作品が作られるようになってきます。

白鳳文化のころに建てられた代表的なお寺が薬師寺です。

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※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/白鳳文化

 

天平文化!

奈良の都・平城京での貴族たち中心の文化が天平文化と呼ばれます。

この時代には、朝廷は中国の唐に使者を送って、唐の文化を取り入れようとしていました。

また中国・唐の国から、海を渡ってきた高僧・鑑真のために唐招提寺も建てられました。

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※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/唐招提寺

今も国宝として大切にされている仏像もたくさんつくられました。東大寺四天王像や、興福寺の阿修羅像です。

天平文化のころになると、漢文による書物も作られるようになってきます。日本最古の歴史書・古事記日本書紀が作られ、朝廷が諸国に命じて、日本各地の産物や伝説などを書かせた風土記も作られます。

日本最古の和歌集・万葉集も作られて、天皇や貴族の和歌から、農民や兵士など民衆の和歌まで約4500首が納められています。

 

ここから先は、奈良時代の中心人物の解説です。興味があって、時間のある方はどうぞ読んでください。

藤原不比等の登場

奈良時代の初期には元明・元正と女帝が続くので、太政官の発言力が強く、右大臣不比等の権力がしだいに高まった。不比等は律令政治の徹底を図る一方、大宝律令の改訂に着手した。718年(養老2)に完成し、養老律令とよばれたとされる。

長屋王政権

不比等の死後、大納言長屋王が政界の中心にたった。724年に聖武天皇が24歳で即位。藤原氏の復権開始。長屋王は貧民の救済に意を用い、律令体制の維持を図った。その政策のなかで注目されるのは、百万町歩開墾計画(規模が大きすぎ実現できなかった)と三世一身法(新しく灌漑施設をつくって開墾した者には3代の間墾田の所有を認めた)である。しかし、密告により、王は家族とともに自殺した。長屋王の変という。のち密告は無実の讒言であることがわかった。

藤四子政権

政権はこうして藤原氏の手中に戻り、藤四子政権が始まった。しかし、政界の変動は社会の動揺を激しくしていた。藤四子政権が社会の不安に対応しているところへ、さらに天然痘の大流行がおこりたくさんの死者が出た。多くの貴族とともに4兄弟も死亡して、藤四子政権は消滅した。

橘諸兄政権

その後を受けて政府の中心となったのは大納言橘諸兄である。諸兄政権下では、留学生や学問僧として唐で学んだ経歴をもつ吉備真備と僧玄〓(げんぼう)が勢力を振るった。この政情に対し、藤原氏の側では大広嗣が740年8月に、真備・玄〓の2人の追放を要求して挙兵した。広嗣の乱という。征討軍は10月初めに広嗣の軍を撃破し、広嗣はその後捕らえられて斬られ、乱は終わった。
しかし聖武は同年10月に平城宮を出て東国に向かい、745年まで5年の間、恭仁と近江国甲賀郡の紫香楽(しがらき)(滋賀県甲賀市)と摂津国の難波(大阪市)との3か所を転々とした。この遷都の騒ぎのなかで、聖武は741年に国分寺・国分尼寺の建立を命じ、743年に盧遮那大仏(るしゃなだいぶつ)造立の詔を発し、紫香楽でその造営に着手した。
政界では、諸兄派の期待を寄せていた安積親王が744年に急死し、諸兄派は打撃を受け、このころから藤原仲麻呂が勢力を伸ばし始める。都は745年に平城に戻り、政情は安定を取り戻すが、仲麻呂の権勢はしだいに諸兄を圧するようになる。

藤原仲麻呂政権

757年諸兄も死去し、反藤原派の勢力はいよいよ衰えた。諸兄の長男橘奈良麻呂はこの年7月挙兵によって政権を奪取しようとしたが、事前に発覚して奈良麻呂をはじめ計画に加わった有力者が多く捕らえられて、殺された。仲麻呂は事件を厳しく処理するとともに、雑徭や田租などの租税を軽減して人心の安定に努めた。これから数年が仲麻呂の全盛期である。奈良麻呂の事件の起こる直前の同年5月、大宝律令を廃して養老律令が施行されるが、仲麻呂が祖父不比等の功績を強調するための処置と推定される。孝謙天皇と仲麻呂は次第に不和となる。そのころ、僧である道鏡が孝謙太上天皇の病気を治療したことから孝謙の信任を得た。形勢挽回(ばんかい)のため仲麻呂は挙兵するが、失敗して近江に走り、抗戦のすえに滅んだ。これを恵美押勝乱ともいう。

道鏡の栄達

称徳は道鏡を大臣禅師とし、左遷されていた豊成を呼び戻して右大臣とした。道鏡はそののち太政大臣禅師から法王に進み、天皇に準ずる待遇を受けた。769年に大宰府主神が、道鏡を皇位につけよという宇佐八幡宮の託宣を朝廷に報告した。いわゆる宇佐八幡神託事件。称徳が宇佐に派遣した和気清麻呂は、天皇になるのは皇族に限るという神託を持ち帰り、道鏡の即位は阻止された。

農民の生活

公民は律令の定めに従って与えられる口分田(くぶんでん)のほか、国家所有の公田を賃租(小作の一種)して生活を維持したが、調・庸(よう)や雑徭(ぞうよう)・兵役などの負担、天候不順による不作などのために生活は苦しく、浮浪逃亡する者が少なくなかった。一方、有力な農民は稲などを貸し付ける出挙(すいこ)や土地の開墾などでいっそう富裕になり、貧富の差はときとともに甚だしくなり、律令体制の崩れる原因の一つとなった。

 

 

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