23.平安時代の寺院


京都の位置と京都市のエリアごとの名前をまず説明します。

そして、京都市のエリアごとの観光地をざっと見てください。今回この中で、2020年12月に私が2泊3日で、まわった観光地をいくつかご紹介します。このブログでは、平安時代に建てられたもの、次のブログでは、鎌倉・室町時代に建てられたものに分けています。京都には世界遺産・国宝級の観光資源がいっぱいありますので、とても今回全部回れませんでしたので、ほんの一部です。また、旅行してもっとたくさん見たいと思っています。
・洛中エリア

★京都駅 ★本願寺 ★二条城 ★三条大橋 ★錦市場 ★京都御所 ★北野天満宮 ★上七軒


・洛北エリア

★上鴨神社 ★下加茂神社 ★金閣寺 ★修学院離宮 ★大原 ★貴船神社 


・洛西エリア

★龍安寺 ★仁和寺 ★広隆寺 ★天龍寺 ★嵐山 ★西芳寺 ★桂離宮 ★渡月橋 ★西芳寺


・洛東エリア

★三十三間堂 ★清水寺 ★祇園 ★南禅寺 ★銀閣寺 ★京都国立博物館 ★八坂神社 ★建仁寺 ★知恩院 ★平安神宮


・洛南エリア

★東寺 ★東福寺 ★伏見稲荷大社 ★伏見の酒蔵 ★醍醐寺


・京都市の南

★宇治平等院 ★石清水八幡宮


・京都市の北

★天橋立 ★伊根の舟屋 ★舞鶴市

 

ここでは、平安時代のお寺、仁和寺、清水寺、三十三間堂について、ご紹介いたします。

 まず、仁和寺です。
仁和2年(886年)光孝天皇が寺の建立を発願されますが、翌年、崩御され、宇多天皇がその遺志を継がれ、仁和4年(888年)に完成し、仁和寺となりました。
宇多天皇は譲位後に出家し、仁和寺第1世 宇多(寛平)法皇となります。以降、皇室出身者が仁和寺の代々住職(門跡)を務め、平安〜鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちました。
しかし応仁の乱で、仁和寺はほとんど焼失、約160年後の寛永11年(1634年)徳川家光により仁和寺は再興され、創建時の姿に戻ることが出来ました。
仁和寺門です。

次が二王門。門左右の金剛力士像、阿形・吽形が寺を外部から守っています。

 

 

 

 

 

 

二王門をくぐるとすぐ左手に旧御室御所。入口の門の写真です。
仁和寺の金堂です。
五重塔です。五重塔遠景も趣がありました。

 

 

 

 

 

続いて、清水寺です。
奈良末期に僧延鎮が開山し、平安建都間もなく坂上田村麻呂が仏殿を建立した。
現在の建物の多くは、江戸時代、徳川家光の寄進によって再建されたものです。

小道を通って清水寺の門へと行きます。

 

 

 

 


では中に入って、有名な清水の舞台へ。右写真は下からの舞台ですが、結構な高さがわかります。

 

 

 

 

 

 

清水の舞台から飛び降りる。
清水寺の高い崖の舞台ら飛び降りると、所願成就のときに怪我をせずに済み、もしくは死んで成仏できるといわれ、身を投げる者が絶えなかったという。 その舞台から飛び降りるほど、必死の覚悟で実行するという意味だそうです。高さは12mほどあり、ビルの4階くらいの高さです。実際に234人が飛び降りたそうですが、生存者は85%以上だそうです。当時は、今より木々がたくさんありクッションになっていたようです。

 

そして、三十三間堂です。

 三十三間堂という名前は、南北120mに渡る大きな本堂の内陣に「33の柱間」があるという特徴から由来します。三十三間堂は蓮華王院の本堂として、1164年に平清盛の寄進により、後白河上皇の法住寺殿内に離宮として建てられました。

ところで、平清盛後白河上皇の関係について。
保元・平治の乱で勝利した平清盛は絶対的勢力を手に入れました。ところが、おごる平家久しからずというように、不満を持つものが現れました。後白河上皇らもそうで、打倒平氏を計画したのですが、これがばれて(鹿ケ谷の陰謀1177年)、後白河上皇も幽閉されてしまいました。蓮華王院建設の頃は、まだ平清盛と後白河上皇の関係は良好であった頃です。

 創建から80年後に焼失してしまいましたが、後嵯峨上皇によって1266年に再建されたものが現在まで残っています。国宝にも指定されている千手観音坐像を作った湛慶は、東大寺南大門の金剛力士立像を作ったことで有名な運慶の息子です。

江戸時代から続く通し矢の行事でも有名。通し矢は、本堂西側の軒下(長さ121m)を南から北に矢を射通す競技で、一昼夜に射通した矢の数を競う「大矢数」などで競いました。

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