日本の古代史(奈良)


約5000年前日本はアジア大陸の一部でした。つまり、今のような大陸と日本の間には海は無かった。10000年位前までに、地殻変動により、日本列島は現在の形になった。それから約BC300年くらいは、人々は狩猟採集により生活をしていた。その後、水稲生活に移行していった。生活が大きく変わり、食料が貯蔵され、定住生活になり、集団で生活するようになった。すると、階級が生まれ、領土拡大のため戦いが始まった。このころの、日本の様子は中国の歴史資料に書かれている。6世紀に、仏教とともに漢字が中国から入ってきて、初めて日本人による日本歴史が書籍に表された。その頃、古代の日本の歴史が、神話として記された。それまでに、日本の豪族のひとつでその当時もっとも勢力の大きかった、「大和朝廷」が現在の天皇の祖先である。天皇家は神話によって権威付けられた。仏教伝来の前から日本人は神様を崇拝していた。これが神道である。神道はあらゆる自然にはそれぞれ由来の神様が宿っているとして、自然崇拝の宗教である。神話によって、神道は天皇家と深く結びつけられた。

奈良時代は8世紀だが、それまでの日本は豪族たちが争いながら、天皇家がありながらも実質的権力者が変わっていた。「聖徳太子」の時代やその後のいくつかの時代は、天皇が権力を有し日本国を統治していたが、いつも権力争いが絶えなかった。女性天皇、元明天皇の時、実質的な権力者は藤原不比等の時代、奈良に都を作り遷都した。その後、聖武天皇の時代に仏教の力をかりて、日本を安定させようと、大きな寺を建て、そこに、大きな仏像を作った。710年から794年まで続くこの時代を奈良時代と呼ぶ。この80年間に色々な人物が権力の座を巡って、入れ替わるのですが、話が複雑になるのでここでは奈良にある歴史的建築や文化物を紹介します。奈良見物に役立ててください。奈良時代の建物(寺院や神社)は奈良にある。では、その奈良にご案内しよう。

まずは、奈良のシンボルの 東大寺の大仏様 から。

奈良にはいくつものお寺がありますが、東大寺には是非ともお出かけください。どうしてかって?それは多くの日本人が一度は訪れたことがあるからです。小中学校の修学旅行目的地の人気スポットで、小さいころ一度は行ったことのある所なので、誰とでも共通の話題として、盛り上がること請け合いです。

次は、法隆寺です。
推古15年(607)、聖徳太子により創建されたと伝わる。「日本書紀」には、天智9年(670)に伽藍を焼失したとの記述があり、8世紀初頭に現伽藍が完成。日本ではじめて世界文化遺産に登録されました。広い境内には、1400年間の歴史を伝える、さまざまな時代の仏像・建造物が残り、約190件が国宝または重要文化財に指定されています。兵火や天災にはあわず、現存する世界最古の木造建築群として世界的に有名です。

これは、かの有名な釈迦三尊像です。(法隆寺H.P.から)

日本各地のお寺に五重塔がありますが、やはり、法隆寺は別格です。

興福寺です。ここは、阿修羅像で有名です。これは、興福寺国宝館の案内看板です。一番上の写真が阿修羅像です。

680年、天武天皇が病にあった皇后の平癒を祈願して発願。その後、皇后は回復しますが、今度は天武天皇が病に倒れ、寺の完成を見ることなく崩御されます。亡き夫の遺志を受け継いで、妻である持統天皇が寺を完成させました。薬師寺は夫婦の愛が築いたお寺です。

東塔は、寺内で唯一当時から残る建物で国宝に指定されています。三重塔です。明治時代にフェノロサがその美しさを「凍れる音楽」と評したとの話は、高校の日本史の教科書に必ず出てきます。

写真撮影は禁止されていますので。東海道新幹線の品川駅改札内に、20年6月に無病息災を願う『薬師三尊像』のパネルを載せておきます。

高松塚古墳壁画館内部は写真撮影禁止ですので、高松塚古墳壁画館看板の写真を載せました。

西壁の女子群像は色彩鮮やかで、歴史の教科書をはじめさまざまな場所でカラー写真で紹介され、「飛鳥美人」のニックネームで知られています。

 

 

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