鎌倉開幕3女性


常盤御前

藤原呈子に仕えていたといわれる絶世の美女。
後に源義朝の側室となって、今若、乙若、牛若(義経)を産んだ。

1159年、平治の乱が起こりました。
義朝が平清盛に敗れたことにより、常盤御前と3人の子は、大和国へと逃れた。
しかし、都に残った常盤御前の母が捕えられてしまう。
母を助けるか、3人の子を落ち延びさせるのか、悩んだ末、清盛の下へ自首することを決めた常盤は、1160年、雪の降る中を都へと戻って行ったのだという。
清盛のもとへ出頭した常盤御前。

3人の子を救うため、清盛の妾になったともいわれる。幼かった牛若(義経)は、11歳になってから鞍馬寺に預けられ、15歳のときに藤原秀衡を頼って奥州平泉へと下っている。
その間、常盤御前は一条長成と再婚。
1180年、源頼朝が挙兵。義経は、源平の戦いで活躍したが、頼朝と対立するようになり、やがて、頼朝から追われる身となってしまう。 常盤御前は一条河崎観音堂の辺りで捕えられた。常盤御前のその後の消息は不明です。

 

静御前

静御前は、平安時代後期から鎌倉時代初期に生きた女性。男装姿で舞う、白拍子舞を職業としていました。白拍子舞をはじめたと言われる女性の1人、磯禅師は静御前の母親です。

義経と出会った経緯は不明ですが、静御前は義経に非常に愛されました。また、とても頭のいい人で、義経が京都で兄・頼朝の刺客に襲われたときに難を逃れたのも、静御前のとっさの機転によるものだったとされます。

1185年、兄である源頼朝と不仲になっていた義経は、京都を離れます。その時にも義経の側には静御前がいました。

しかし翌年、雪の降る大和国(現在の奈良県)吉野山の山中で、静御前は義経と別れます。義経に身の安全を配慮されたためでしたが、ここで静御前は捕まり、母・磯禅師とともに鎌倉へ送られます。

頼朝とその妻・北条政子に命じられて、鶴岡八幡宮で静御前が舞ったときの歌は、義経を恋い慕う内容で、頼朝を激怒させました。しかし、政子が「自分も同じ立場ならこうする」と取りなして、命を助けられました。

静御前は義経の子を宿していて、1186年に出産します。生まれた子供が女の子なら救うが、男の子なら将来の禍根を残さないために殺す、と告げられていたのですが、生まれてきたのは男の子でした。大泣きして離さない静御前の腕から磯禅師に取り上げられ、頼朝の家来の手に渡った義経の子は、鎌倉の由比ヶ浜に沈められました。

その1カ月半ほど後、静御前は母とともに京へ帰されます。頼朝の妻・政子母娘が静御前を憐れみ、たくさんの宝物を持たせたといいますが、その後の静御前がどうなったのか、いつ頃まで生きたのか、記録は何も残っていません。

 

北条政子

北条政子は、平安時代末期~鎌倉時代初期に生きた女性で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室です。

政子は保元2(1157)年、伊豆(現在の静岡県)の豪族、北条時政(ほうじょうときまさ)の長女として生まれました。
1160年の平治の乱で敗北し、伊豆に流されてきていた13歳の源頼朝と出会った。次第に政子と頼朝は惹かれ合い、恋仲になります。父・時政の大反対を押し切って政子は21歳で頼朝と結婚しました。

政子が「悪女」と呼ばれる理由の1つに挙げられるのが、このエピソードです。
第2子の懐妊中に頼朝が通っていた女性・亀の前(かめのまえ)の存在を知ると、その家を壊させてしまいます。ただ、これは政子にしてみれば感情論だけではない一大事だったから、のようですが、やり方の派手さから、そうしたレッテルを貼られてしまいました。

1199年に頼朝が死去すると、政子の子の頼家(よりいえ)・実朝(さねとも)が将軍になりますが、相次いで暗殺されてしまいます。また、争いごとの調停を担うなど、政子の幕府内での重要性はどんどん増していきました。

実朝が暗殺された後、政子は将軍の補佐・代行として幕府の実権を完全に手中にして尼将軍と呼ばれ、鎌倉幕府の安泰に全身全霊を注ぎました。1221年の承久の乱の際には、亡き頼朝の恩を御家人たちに説き、士気を高めたと言われます。

1225年8月16日、政子は波乱に満ちた生涯を閉じます。70歳近くまで生きた、当時としては長い人生でした。

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