承久の変


日本史上初の武士政権-鎌倉幕府―が如何に作られたかを見ていく上でのエポックメイキングな事件が「承久の乱」です。ここでは、承久の乱とはどのようなものであったかを、俯瞰していきます。本郷和人作「承久の乱」(文芸春秋社)を参考にさせていただきました。

鎌倉幕府における、江戸時代前の関ヶ原の戦いや明治維新前の大政奉還などの大事件に匹敵するのが、承久の乱といえますが、あまり有名ではありません。しかし、これを知ると、鎌倉幕府およびそれから1868年まで続く武家政権についてよくわかります。

頼朝を棟梁として、結集することで、自分たちの土地の保障を得るというのが、鎌倉幕府の基本体制。つまり、「御恩」と「奉公」の関係です。頼朝の子分たちを「御家人」と言いました。前の時代、平安時代と比較すると、

朝廷の支配は一方的な収奪的な支配でした。ですから、生活に耐えきれない農民たちは「逃亡」や「浮浪」となり、律令制度は行き詰まっていました。私有地「荘園」制度ができましたが、外敵から自分の土地を自力で守れなければならず、これは大変なこと。外敵以外にも役人も厄介な存在。いつ、土地を没収されるかわかりません。結局、自ら武装し仲間を集めて、土地と一族を守るんだ、これが武士の誕生!でした。そんな時に、上司がいて、危機に陥った時には、強力な武力を使って守ってくれる。そしたら、皆この上司のもとに集まるでしょう。その上司の中で実力や権力が抜きんでていたのが、源氏と平氏でした。

一方、そのような時代の朝廷側の代表的人物が、後白河天皇とそのブレーンの藤原信西(しんぜい)です。権力争いが次々に起こり(保元の乱や平治の乱)、武士の政治介入を招くこととなりました。これらの争いの中で、源平が争い、平治の乱で頼朝の父義朝が破れ、以降平清盛をはじめとする平氏の時代へとなっていくわけです。これに反対した後白河上皇は清盛によって幽閉されてしまいました。しかし、清盛の死後、「おごる平家は久しからず」というように、結局は頼朝を棟梁とした源氏に敗れていくわけです。そして、鎌倉幕府へ。

しかし、この流れの理解だけでは、単なる権力争いの流れで支配人物が変わっていっただけです。そうではなく、源平の争いは、在地領主(源氏)と朝廷政権(平氏)の戦いだったと。そして最終的には、源頼朝が武士の首領となり、在地領主の政権を築いていったとの理解です。これなら、平安末期の荘園制度の不安定さを見事に改善していった政権が鎌倉幕府であったと理解できます。

でも、まだこれでスムーズに政権交代が終わるわけではないのです。ここを2部に分けると、前半が「北条氏執権支配へ」と「承久の乱後の体制強化」です。まず、北条氏執権支配から見ていきましょう。

源義朝死後、伊豆に流されていた頼朝の監視役となったのが北条時政で、頼朝の正妻となったのが時政の娘政子です。ここから、話は面白いのですが、少し複雑になるのではしょります。鎌倉幕府開始後、頼朝は鎌倉を拠点とするも、やはり、京の都の支配を目指しておりその機会をうかがっていました。しかし、頼朝の時代では、在地領地の権利保障を最重要課題とする新体制つくりまででした。しかし一方、この時代まだ朝廷の力は依然として残っており、朝廷の最大の力の源泉は、『官位』の授与権でした。平家を負かした源氏勢に官位を与え朝廷の秩序の中に取り込もうとしていました。この流れのなかで、朝廷から官位を授与され、鎌倉幕府の新体制の秩序にそぐわない勢力がいて、その代表格が頼朝の弟義経です。義経自体は頼朝に認められようとしていましたが、新体制の脱朝廷を理解していなかったのが悲劇の原因でしょう。鎌倉幕府はこれら朝廷官位授与組を武力で次々に一掃していき体制を強化していきました。「武士による、武士のための政権」樹立が徐々に確立されていきます。

その前に、頼朝死後、結局は源氏の血は絶え、執権北条氏の時代へとなるわけです。つまり、頼家、実朝、そして頼家の子公暁、一幡とすべて死んでしまいます。みんな北条氏が深くかかわっていました。また、頼朝死後は有力御家人たちの合議制で幕府は運営されていました。その中に北条時政がいたわけですが、時政はこのメンバーを次々に駆逐していきました。梶原景時、比企能員、畠山重忠などです。さらに、時政の死後、その息子義時は最後に残っていた和田義盛も戦士に追い込み、北条義時は幕府の実質的支配者である「執権」の地位につき以降北条氏がこの地位を世襲していきます。但し、義時は時政からは自分の後継者とはみなされておらず、義時の乗っ取りに近い形での政権奪取だったようです。

ここで、承久の乱の一方の主役後鳥羽上皇について、述べると。後鳥羽上皇は文武両方に優れていました。そして、朝廷を中心とした秩序の回復という政治的理念もしっかり持っていました。後鳥羽上皇は軍事力の増強に力を入れました。そもそも、政治闘争に武士を巻き込んだのは、後白河上皇と側近の藤原信西でした。歴史的には、最初に武士団を組織したのは白河上皇で、北面の武士と呼ばれていました。平清盛も源義朝も北面の武士でした。後鳥羽上皇はこれに加え西面の武士を組織して増強しました。この時代は複数の主人に仕えることはよくありました。(頼朝は御家人に直接命令に従うことは、幕府の基盤を揺るがすこととして激しく嫌がっていました。)しかし、時代は下って、実朝の時代には、これは実質的には容認されていました。北条時政も義時もこの時代までは、容認していたようです。次に、これが、抜き差しならない事態へと変わっていったのが、「承久の乱」となるわけです。

実朝は頼家の息子公暁により暗殺されました。そのバックには義時がいました。実朝は上皇に対して心中の姿勢を示していたので、上皇にしてみれば実質的な対幕府政策の要を失ったわけです。もう上皇としては、朝廷の権威を元に戻すには、武力で屈服させるしかないということで、後鳥羽上皇は幕府つまり義時追討令を決意。そして、承久の乱へと。義時側はこの時点では、まだ自分たちの力を西国にまでとは考えてはいなかった。しかし、朝廷に宣戦布告された以上、避けるわけにいかなかったのです。当時まだ天皇の権威は人々の中に残っており、天皇と戦うことに躊躇するものも多くいました。そこで、有名な政子の演説が登場するわけです。ただ実際には、政子が大勢の御家人を前にして演説したのではなく、有力側近だった安達影盛が政子の話を聞き、行ったようです。

「皆心を一つにして聞くように。故頼朝将軍が朝敵を征伐し関東を草創して以来、官位・俸禄を与えた恩は山より高く海より深い。今、道理に背いた綸旨が下された。名を惜しむものは京を打って、将軍の遺跡を守るように。但し、院に参りたいものは今すぐ申し出よ」

これに鼓舞されてかはちょっと小説じみてはいますが、いずれにしても幕府側は一致団結し、今日の朝廷軍と戦うことを決意したのです。当然そうしたには訳があり、幕府武士たちは、鎌倉幕府は自分たちの土地を守るために自分たちがつくったもの。後鳥羽上皇の命令はこれを否定してきたわけですから、戦わざるを得ないということです。しかも、朝廷軍が京から幕府軍を攻めに来たのではなく、幕府軍から京へ攻めに行ったのです。義時は息子の泰時に軍を率いて出発させました。並々ならぬ決意です。これに幕府軍は義時の決意を感じ、益々団結が強くなっていきました。

一方の、戦いを仕掛けた朝廷軍はその組織団結も戦略もありませんでした。その中で、次々に、戦いに敗れていき、ついに後鳥羽上皇は北条泰時に全面降伏するのです。そして、武力放棄を宣言しました。上皇の敗因はいくつが挙げられますが、この時代、上皇といっても質数共に、幕府軍に匹敵するだけの武力勢力を集めることはできなかったということでしょう。

承久の乱を制した北条泰時は、京都に「六波羅探題」を設置し、戦後処理にあたりました。朝廷側軍への処分は徹底した武士の論理によるもので、苛烈を極め処刑されただけでなく、首を大衆に晒され、家族も幼子を含め徹底的に処分されました。この時代、武士は負ければ家族も含め死が待っていることは覚悟の上でしたが、貴族は政争に敗れても命を取られることはありませんでした。それが、皆殺しです。これ以降、幕府にたてつく貴族はいなかったのは当然でしょう。朝廷の最高権力者、後鳥羽上皇は、流石に命は取られませんでしたが、壱岐に島流しとなり、上皇の位もはく奪され、かつこれ以降、天皇の位は幕府が決定するようになりました。これは日本史上の大転換点です。さらには、上皇側の荘園はかつての平家領の六倍はありましたが、これを幕府は手に入れ、御家人に御恩として与え、御家人からの奉公を幕府は得ることとなったのです。こうして、承久の乱は終わり「武士の時代」始まり、7百年続くわけです。

義時の死後、執権となった泰時は、単なる武力闘争の勝者としての治世ではなく、「法の支配」を幕府に確立していきました。これが「御成敗式目」です。また、幕府を行政組織として確立していきます。

以上のように、平安時代の終わりは鎌倉幕府創設の1192年ですが、実質的な武家社会の始まりは、承久の乱の1221年であろうと思われます。そして承久の乱は、関ヶ原の戦いや大政奉還に並ぶ日本史上の大きな転換点だったと思われます。

 

 

 

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